キイロイトリらぼ

ぬいぐるみと一緒に生きていきます

社会人博士への道のり

概略

2018年1月,私は社会人1年目の冬に博士進学をすることになった.
それから,社会人2年目とともに,博士後期課程1年生を迎えることになった.そして,平成31年3月に博士(工学)として卒業することができた.
あっという間の1年であったが,どういうふうに過ごしたかを記録する.

2017年10月

指導教員の先生から雑誌論文採択の連絡が来た.大学院は2017年3月に卒業をしているが,修士論文の内容で雑誌論文に投稿することも並行して行っていた.8月の夏休みには研究室に足を運んで,直接指導を受けながら修正をしていた.その論文が採択されたのだ.普通は論文採択というのは嬉しいものだが,この当時は,社会人1年目で配属して間もないこともあり,今更学業のことを持ち出されてもと思い少し白けてもいた.しかし,この採択はかなり大きな意味を持つものだった.これによって,博士後期課程の早期卒業の条件が揃ったのだ.
博士課程の卒業要件は各大学,各学科でも異なるが,ともかく,自身の所属学科では要件が揃っていた.これは,自分が終了する前にも散々聞かされていたことであった.
自分の大学院時代は修士卒として就職をするか,博士進学をするかで悩んだ時代でもあった.
自分はもともと博士進学に関心のある方ではなかった.博士進学をする人で共通しているのは,もともとアカデミアに関心のある人か,かっこいいからとか,なんとなくとか,研究が好きだから,といったロマンティックな思想を持っている人ばかりだった.そういう人が多く周りにいたことは自分に結構大きな影響を与えたと言えるが,自分はそういう思想を受け入れることは難しかった.博士進学をする人のパターンには上記の人以外に,指導教員に進められたからというのもある.自分はそのタイプである.指導教員に進められる人は結構多かったが,実際に進学した人は少なかった.自分はその中でも,進学してもいいかなと思った方であるが,自分の当初の人生設計にはない方向転換であることに受け入れられず,とうとう断念することになった.
指導教員の先生はあらゆるパターンで説得をしてくれたが,その一つに,社会人から戻ってくることもあった.
そのための条件や,大学にはどれくらい通うか,イメージできるくらいにレクチャーしてくれた.その当時は,あまり真正直には聞いていなかった.就職すれば,そのまま次第に忘れ去られるとも思っていたからだ.
しかし,そこはさすがとも言えるのだが,しっかりとお膳立てをしてくれていた.
論文採択が完了した後は,博士進学を悩む障壁は殆どなくなっていた.さらに,当時は社会人1年目特有の自分の技術力のなさだとか,この先大丈夫なのか,と実際の業務を目にしてから,漫然と不安を覚えたことが功を奏した.自分には取り立てて技術力がある方ではないことを自覚した以上,自分に何ができるか,周りと違うことができるかを考えたときに,博士進学を選んでもいいのでは,ということはタイミングよく受け入れることになったと思う.
しかし,実際には雑誌論文の採択の連絡と合わせてきた進学への誘いは,その場では返信しなかった.
また葛藤することになった.

2017年12月

論文採択から1ヶ月位したら,指導教員からリマインドが来た.
内容は結構な説得だったと思う.一応元先生と学生との関係とはいえ,このときは.一社会人としての関係を意識してしまい,お気持ちを無碍にすることがかなり失礼なのではと思うようになった.
とはいえ,進学してもいいとも思ってもいたのだが,口でいうほど道程は険しいことは明らかだった.
まだまだ本業の仕事は慣れず,日々残業で余裕はなかった.さらに,母校に通うにも半日かかる距離があった.
イメージすればするほど,疲弊していくのは目に見えていたが,一方で,自分の自信のなさのほうが勝っていた.悶々とした年末を迎えることになった.

2018年1月

とうとう,指導教員から電話が来た.
やはり,コミュニケーションというのは,メールよりも電話,直接の会話なのだろう.
もはや,これまでとも思い決断した.これは,決して折れた,とか急かされたわけではない.
人はよく迷っているといったときの殆どは,実際には迷ってはいない.後押しがほしいだけなのである.
YESといった後は,それはそれは血の気が引くような思いと同時に,興奮もした.
そんな情緒不安定なこともしているまもなく,年明け早々に入学手続きに追われることになった.
当時の日記にはこのときの思いをこう書いている.

もったいない、とは言われて、それでもやりません、とは言えなかったのには、
自分の数少ない資質がここで失われてしまうことに虚しさを覚えたからだ。自分が得意なこと、なんてこれから先いくつできるかはわからない。しかし、これだけ周りの、そして、尊敬する人たちに目をかけられたことに、自分はもっと感謝をするべきなのだろう。もう少し自分を信じてみてはどうかと思った次第なのだ。

入学試験に必要なのは,口頭試験用のスライド,それに準じた研究計画とこれまでの研究実績.
そして,検定料の支払い30000円,必要書類の送付であった.口頭試験用のスライドは試験日まで準備ができるが,必要書類はほとんどその日のうちに用意をする必要があった.明日明後日で会社に出社するというのに,コンビニで検定料を支払い,必要書類をコピーして郵送をすることに手間取ったのを覚えている.
試験日は2月1日.それまでに口頭試験用のスライドを作成して,練習をしなくてはいけない.
平日は殆ど定時で帰れなかったため,土日はずっとスライドの準備をした.

2月

入試日は平日だったため,有給休暇を使う必要があった.
試験前日は無理をして定時で退社し,空港に向かった.飛行機のほうが安く,早く到着ができたのだ.
国内線を使うのは久しぶりだったので,パスポートがいらないのは新鮮だった.到着してからホテルに移動して,時間が許す限り,スライドの発表練習をした.何かを練習するなんていうのは久しぶりだった.会社でも研修で発表の機会はたしかにあったが,博士進学の入試や予備審査,本審査の比ではない.そう思うと自分は結構平穏に働いていたのだなと思ってしまった.
口頭試験はスライドの発表である.
これからどんな研究をしていくのかを教授たちに説明するのである.
自分の場合は,修士で研究をしていた内容のアップデートだったので,修士での研究にどのような課題があり,こうすれば,解決できる,と説明していった.
今思えば,それなりに説明はできたと思うが,実際にできるのかで言えば,怪しかった.
自分の研究は実際に物を動かす必要があったため,社会人として,この計画を進めていくことは贔屓目に見ても不可能であった.本当に学生として入学したほうがまだ説得力があった.
ただ,ここで言う研究計画というのは,助成金をもらうとか,そういう目的とは異なり,受験者が博士学生としてやっていけるかを見ていることが主体である.そういった本音の部分は教授陣に細かく質疑応答することでなんとか乗り切ったと思う.
受験後は休むまもなく帰宅し,次の日は普通に出社した.

その2週間後に合格通知が来た.
いよいよを持って社会人博士としてやっていくことになった.
安堵と不安が入り交じる中,入学金の振り込み案内で目が覚めた.
入学金28万円を入金しないといけないのだ.
ボーナスを貰っていたとはいえ,結構な大金である.しかし,やっぱりやめた,とはできず,
自分はボーナスをこれから博士学生生活に費やすことになる.

3月

実際に入金をしたのは3月はじめ.
郵便局というのは平日しかやっていないところが多く,有給休暇を取らないと動けないのは結構ストレスである.

4月

入学式当日は悲しいかな,業務のため休暇を取れなかった.
今思えば本当に無理だったかは思い出せないが,こういう記念日を現地で体感しないというのは,モチベーションに大きく影響すると考える.
確かに,ただの儀式には他ならないし,数年前に一度体験したことがあるものだから,と考えるのも無理はなかった.
だが,当時は先行きもわからないままに,社会人博士を目指した最初のイベントである.
見知った先輩方や先生方と英気を養うだけでも,これからの時間の覚悟を感じられたであろう.
後で思い知ることになるが,社会人博士というのは,孤独との戦いであった.
何しろ,会社の周りには相談できる人などいない.
学生時代ならふらりと研究室に来て,周りの人たちと雑談でもできたが,遠隔地で通うことからできない.
これから社会人博士を考える人への助言の一つとしては,儀礼的なものとはいえ,入学式は行った方がいい.

また,この時期は,研究活動の環境整備に苦労した.
なにせ,当時研究をしていたPCではないため,殆どがイチから用意し直しになった.
Officeを入学時のアカウントで入手し,matlabを研究室のサーバで使えるようにした.Tex環境もイチからTexliveで用意した.Illustratorだけはしょうがなく契約をした.
学生時代はこれらの環境は研究室にあやかってあまり苦労せずに用意できた.研究室PCにどんどん環境を入れていた.
開発環境を整えることの苦労は結構学生時代でもしてきたつもりであるが,会社ではほとんどOfficeしか触らないのであまり役になっていない.開発ツールもググっても出てこないようなニッチなものを使っている.もちろん開発用のデバイスに依存するものであるとはわかっているが,学生時代に培ってきた素養と会社で必要な素養は結構乖離があることを実感した.

社会人博士として大学に来れたのはGW初日であった.
学生証の受け取りを筆頭に指導教員と研究の相談をする時間となった.
自分でもある程度検討していたつもりだが,直接相談してみると,今回の挑戦の困難さを突きつけられた.

5月

自身の会社ではGWが10日にも及ぶことから研究活動に当てるのにはもってこいだったはずだが,
学生証を受け取った初日以外は素直に大学から戻ってGWをただただ過ごしていただけであった.
今思えば,ホテル通いでもして研究室に通いつめるくらいはしても良かったはずである.
自分が自宅で研究を進められるタイプではないことを十分にわかっていたはずだが,甘えがあった.
これも他にプライベートが充実していたらまだ養護できるものの,帰省もせず,ただ苦学生を演じていただけであった.
その要因でもないが,GW開けすぐに海外出張が決まっていたことがあったと思う.
中々タフな業務には違いなく,その出発前くらいは休んでおきたい,という考えがあったのだろう.
だが,研究が進んでいない,という状況そのものが精神を蝕むのだから,社会人との二足のわらじだからこそ,
できる時にやらなかったことの後悔のほうが自分を苦しめることに気づくべきであった.

ここでの教訓は社会人博士たるもの,長期休暇の過ごし方も計画すべき,である.

6月

中々残酷なことに,5月は2週間も海外出張があったため,研究が全くと行っていいほどできなかった.
その上,単位取得という壁も立ちはだかる.
取得に必要な授業は予め融通の聞く土日などで充てがっていたが,
それ以外に必須の研究発表の単位があった.
内容そのものはこれまでまとめてきたものを授業用に整形することで賄えるものであったが,
専用のスライドを作成するうえ,発表練習も必要である.
学生であれば,所属の研究室で発表練習を何度か経た上で臨むイベントでもあるのだが,
社会人博士の自分は当然そういう準備も省略になってしまう.

研究発表の準備はなんとか拵えて当日を迎えたが,
何と当日の朝駅で移動中に震度6の地震が発生してしまった.
新幹線が動くか動かないかを毎分気にしながら,指導教員の先生とやり取りするすり減る時間があった.
結果,新幹線が復旧しないことがわかり,スカイプで遠隔での発表となった.
今でこそ,オンラインでの発表は当たり前になったが,
当時はまだ前例があまりなかった.
他の学生は現地で発表している中,自分だけが自宅から配信するという,時代に先んじた発表となった.
思えば,これができるくらいだったら,極力スカイプで良いのではないかと思ったくらいである.
何しろ,当日のスケジュールは朝新幹線に乗ったあとは,大学について研究発表をして,すぐ帰らないと,次の日の業務に出れないくらいにタイトであった.
物理的距離の成約は自分が選んだ職場の都合上しようがない.

だが,オンラインがここまで発達した今の環境なら社会人博士にとってはいい傾向である.

7月

驚くなかれ,ひと月前に研究発表をしたというのにもう一回をしないと単位が取得できないのである.
だが,それも内容はそんなに困るものではない.
前回こそは久しぶり出会ったこともあり,まとめ方に苦心したが,
大凡勘をつかんだのか,準備はスムーズにできていた.
今回は発表は現地にたどり着いてできた.
その上,研究室の面々にも会うことができた.
当時学部4年生だった人たちも,修士2年になっており,就活も終わっているようだった.
誰々がどこの企業に行った,というのは野暮ではあるが面白い話である一方で,
自分は中々就活は彼らほどできていなかったな,と思い知らされることにもなった.

印象的だったのは,私が研究室に顔を出したとき,出張と言うかたちで来ていると思われたことである.
いや,有給を使って自費で来ている,というと顔を曇らせていた.
確かに企業によっては,会社の制度で学位取得ができるのもあるが,
有給を使って学位取得をしに行く人はかなり少数派だろう.
この手の話が美談に聞こえるかどうかは分かれるだろうが,
一つ言えるのは,身銭を切って進学をしてたからこそ,後に引けない,というものあった.
会社がお金を出してくれる,という状況で,同じパフォーマンスが出せるかどうかでもある.

2回目の発表を終えるといよいよ博士論文をまとめる段階になった.
こればかりは初めてのことなので身が引き締まったのを覚えている.


8月

業務との二足のわらじもそれなりに慣れていた頃かもしれない.
その中でまた長期休暇に入った.
残念ながら,また思うような社会人博士生活とはなっていなかった.
帰省はしたものの,当然,実家で執筆がはかどるわけでもなかった.
プライベートとして貴重な友人との交流の時間に割けたことは悔いはなかった.
だが,なぜか友人との会話の中で自分が社会人博士をしている,ということは話さなかった.
話が伝わらない,という間柄ではないのだが,どこか気取ってしまうのではないかと心にしまってしまった.
確かに楽しい話ができるわけでもないのだが,そこは,私の話のスキルがないだけであった.
ただでさえ孤独な挑戦である.
当時の自分にアドバイスするならば,自分がそれなりに大きな挑戦をしていること,そして,それがやっぱり大変なんだ,
ということくらいは打ち明けても良いものであった.

あまりにも博論執筆がはかどらないので,
実家のショッピングモールのフードコートでパソコンを立ち上げて書くまでもした.
意外とその時は捗ったものであるが,帰省をしているというのに気分は憂鬱で仕方がなかった.

長期休暇はお盆の期間だけであっという間に終わったが,大学生にとっては8月いっぱいが休暇という羨ましい制度でもある.
この時期には集中講義が多く開講されていたのだが,中でも,博士の学位を取得した人の講話の授業があったようである.
これは,当時,いや,今の自分でも欲していた知見でもあり,この講座に登録できていなかった自分をかなり呪っていたのを思い出す.

こういう授業の履修一つとっても相談相手が限られるというのも社会人博士の辛さかもしれない.

9月

予備審査の準備に追われる

意外かも知れないがこの時期くらいには必須単位の習得はほぼ終わっている.
残すは博士論文のみである.
これも書けば終わりでは当然なく,審査がある.
11月に予定されたのだが,必然的に,博士論文の大凡を10月には書ききらないといけないことを突きつけられる.
これまでの活動でだいぶ平日は業務,土日は執筆というスタイルを確立してきたので,時間に関してはなんとかなると思ったが,
何しろ審査というものの感覚がほとんどわからなかった.
修士の時代に先輩の予備審査に何度か出たことがあるのだが,
このときは60分発表して,60分質疑応答をしていた.
とても自分で耐えれる気がしない.
これが,研究室所属の学生なら,練習の機会も何度か調整が効くのであろうが,
ここが社会人博士の辛いところである.
行ける日を見繕ってそれまでに仕上げないといけないのだから.

10月

未知の世界である予備審査用のスライドづくりに奔走していた.
何しろ60分のスライドである.
確かに説明しようと思えばそれくらいの量になったのだが,これをスラスラと説明するには何度練習が必要なのか目眩がしたものだ.
それだけでもいっぱいいっぱいなところに,更には,会社の研修も追加されていた.
これが意外と厄介であった.
会社の研修でも発表があるのだが,研究よりもネタに困った.
何しろ好き勝手なネタはできないし,業務で扱った課題を持ちいらないといけない.
悲しいかな,二足のわらじが三足目になり,流石に疲労が見えた.

この時期は業務に研修にと盛りだくさんで大変すり減ったのを覚えている.

11月

予備審査をなんとか終えた.
今思えば良く準備しきれたと思える.
当日は前日入りしたホテルで発表練習をしていたのを覚えている.

発表を終えたことで,ようやく自分の社会人博士の生活の先が見えた.
この次は,本審査と論文提出の2つだけである.
本審査は予備審査のブラッシュアップのようなものである.
論文提出は文字通り博士論文を提出することである.

予備審査のあとは,会社の研修発表があった.だが,予備審査と比べればなんてことはないと開き直れた.
何しろ発表時間がたかだか10分くらいだったのだから.

12月

この時期は業務以外の時間はほとんど博士論文で頭が一杯になっていた.
できたと思っても修正の返答が返ってくることには堪えた.
クリスマスに,年末年始というイベントにももはや動じなくなっていた.
晦日の有名なテレビ番組を見ながら博士論文を書いていたのはもはや一種の抵抗でもあった.
だが,一方で,やることはシンプルなのであとはどこまで完成度を高めるかだけであった.

1月

いよいよ博士論文を提出した.
修士論文のときは仲間と盛り上がった気もするのだが,これも社会人博士ならではか,
提出後は静かに立ち去った.
あれだけ悩み抜いて選択した社会人博士の活動がこれで区切りともなった瞬間である.
まだ本審査が残っていたので,スライド修正と発表練習もあったが,
不思議と気は晴れていた.

2月

本審査を終えた.
当然予備審査で受けた指摘のこともあるのでより覚悟を持って臨む必要があったが,
幸いにも当日1週間前に会社のリクルーター業務のついでに指導教員の先生方に発表練習を見てもらったのも大きい.
ご多忙の中大変ありがたかった.
私が今回の社会人博士をやりきれたのも,研究室の先生方のご指導があってこそである.

3月

いよいよ卒業式を迎えた.
これだけはなんとか業務を調整して参加することができた.
何とその1週間前にもまた海外出張があったのである.
流石に慣れたものであったが,卒業式とかぶらなくてよかった.
卒業式は親しくしていただいた先輩方と臨む事ができたのも良かった.
本来であれば,社会人としてではなく,学生として,1年,いや,3年在籍した上でこの日を迎えていたらなとも思った.
何しろ,大学院生だったという感慨がないのである.
この一年で大学に通った回数はせいぜい10回くらいである.
修士時代にいやというほど通ってきたとは言え,これでは感慨も薄れる.
せめて,土日に顔を出せるくらいの距離に住んでいればなと思っていた.

総評

まずは無事学位取得ができて心から良かったと言える.
業務へのしわ寄せも幸いなかったのが救いである.
当時の社会人博士としての活動はすべて有給休暇を使ってのものであった.
だが,悲しいかな,このせいでプライベートが犠牲になった,というのもなかった.
むしろ,修了後,今のほうが持て余している.
不思議でもないのだが,体力的には大変だったかもだが,精神的には最も充実した年であった.
むしろ,次の年,もっと言えば,昨年くらいのほうが社会人博士の時代よりも何倍も大変であった.
修士修了からたかだか1年くらいしか間がなかったが,社会人という過ごし方に悩まされたこともあり,
私自身のアイデンティティの確立に大きく貢献したイベントになった.
それが今の自分にプラスになっていないことがずっと心残りである.

振り返り

もう一回社会人博士をやるなどはないだろうが,こうすればもっと良かったと思えることを書き記す

  • 入学式,卒業式などの儀式はなるべく行くこと
  • 通う大学は通勤通学圏内が望ましい
  • 挑戦前に年間スケジュールを確認すること
  • 取得単位はためになるものもあるのでよく吟味すること
  • 自分が社会人博士に挑戦していることを応援してくれる友人がいれば相談すること
  • 進捗がなくても指導教員の先生とは定期的に連絡をとりあうこと
  • 学生でしか使えない制度を精一杯利用すること